「あきらめの悪いやつだ」と悪役に言われたり「あきらめないで!」と真矢みきに励まされたり
「あきらめました あなたの事は♪」 と研ナオコに勝手にあきらめられたり・・・
世界の中でも比較的淡白な精神性を持つと言われる私たち日本人の心には、「あきらめ」という言葉がしっかり成分表示されていると感じます。
「あきらめ」を英語で表すと「giving up」か「to abandon」となりますがニュアンスとしてはそれぞれ「一生懸命やっていたことをやめること」「放棄すること」といった意味になるそうです。
なんかちょっと違いますような・・・
私達の「あきらめ」というのはもう少し手前の段階でまさしく「淡白に」あきらめることのように思えます。
ところで「あきらめる」というのを漢字で書くと「諦める」ですよね。
この「諦」という漢字ですが、よくよくみてみるとなんと「言帝」つまり「言葉の帝」と書くんですね。
あきらめるって別にそんなすごい字じゃなくてもいいような気がします。
せいぜい「弱者の言葉」で「言弱」くらいで十分じゃあないでしょうか?
みなさんもそう思いませんか?
で、気になって調べたところ「諦」にはなんと「見きわめられた道理・真理」という意味があるだそうです。
私はかなりびっくりしました。
どのくらいびっくりしたかと言うと、かわいい幼稚園児の名札をみたら「怨蛇沼墓鬼子」と書いてあったくらいのびっくりでしょうか。
「諦」に関する熟語もけっこうすごくて「要諦」と書くと、「物事の最も大切なところ、肝心かなめの点」という意味になってしまいます。
「なぜー?? 諦って凄すぎ」と思った3行目に、もともとは「仏教用語である」という説明がされてました。
なんと漢語の「諦」は、梵語(古代インド語)のsatya(サトヤ)への訳語であって、「真理、道理」を意味するそうで
釈迦はその初説法で、四つの真理「四諦(したい)」を説かれたとか。
言われてみれば「あきらめ」って言葉は「あきらか」に似ています。
もしかしたら古人は「明らかになった事実に対して淡々と処すること」を「あきらめる」と名付けたのかもしれませんね。
そう考えるとそれこそ「never giveup」精神に囚われすぎてしまうことは真理に近づけない原因にもなりかねません。
苦手克服とばかりに、何でもかんでもトライするのではなく、自分の得意なことや、やりたいことをしっかり見据え、究(きわ)めて行ったほうが真理により近づけるかもしれませんね。
最近私は「苦手なことは、ほっとけほっとけ」で良いんじゃないかと思います(モノがホトケだけに)。
前にも書いたかもしれませんが、私は理屈や数字や仕組みのことを考えるのは得意だし好きですが、予定や人の名前を覚えておくことが本当に苦手なんです(忘れ物は得意です)。
ですが、不思議なものでこれまでそのことで進退窮まる、という体験はあんまりありません。
大抵は、それが得意な人が私を助けてくれます。
事前に確認の連絡をくれたり、目の前の方の名前がわからないでいると横からそっと助け舟を出してくれたり・・
たぶん私のように、あなたの得意なことが苦手であなたの助けを待っている人、あなたの苦手な分野であなたに手を差し伸べたいと思っている人が近くにいるはずですよ。
☆おまけ 四諦とは以下の4つの真理だそうです。
・苦諦(くたい) – 迷いのこの世は一切が苦であるという真実。
・集諦(じったい) – 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
・滅諦(めったい) – 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
・道諦(どうたい) – 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ
・・四諦・・わかってはいるけどできないことばっかりで、私が真理を悟ることは「諦め」ざるをえません・・どなたかよろしくお願いします・・・
☆おまけのおまけ
マイクロソフト社の現CEO サティア・ナデラ(Satya Nadella)さんのファーストネーム「サティア」はまさしくこの「諦」です。「ナデラ真理」さんというわけですね。