「ライナスのブランケット」ってご存知ですか?
世界一有名な犬のスヌーピーが登場するチャールズ・M・シュルツのPEANUTSに登場する少年ライナスはもう学校に行く年なのに、いつもお古の毛布(ブランケット)を手放せず、ほおに押し当てています。
「もう大人になったのだから」と手放してもまた結局手にとってしまう・・・
みなさんも「ライナスのブランケット」のように手放したくても手放せないものってお持ちですか?
私は大人になったのだから、というのはありませんが、自社や契約先のデジタル化やDX(デジタル化とデジタルトランスフォーメーションとの違いはまたいずれ)を推進する立場なのに、どうしても手放せないものがあります。
それは超アナログな「手帳」。
そう、リアルに紙のページにペンで書く、あの手帳です。
別に文房具愛好家とか手帳フェチとか、そんなわけではありません。
むしろできたら明日からでも使うのをやめたい!
なぜなら私は正直字を書くのが得意じゃありません。
だから私のメモは誰も読めず周囲からは「宇宙からのメッセージ」と呼ばれ、自分でも読めない時があるくらいです。
そういうわけで、かなり前から、手帳を手放すことができないかと、色々と試してきました。
携帯電話にカレンダーやメモ機能が付いた時、そしてシャープから電子手帳「ザウルス」が世に出た時、日本語化されたHP(ヒューレット・パッカード)のポケットPC、「200LX」が出たときも、決して安くないお金を払ってそれらを試してみました。
あの「BlackBerry」も何度店頭で触ってみたことか・・・
そして今やスマホの時代、アップルやグーグルのカレンダーやメモ帳アプリを使えばPCとの連携もバッチリ。
実際スマホを手にしたことで手帳とサヨナラした方も多く見受けられますよね。
当然私も試してみました。
最初はiPhoneのカレンダー、そしてグーグルカレンダー。
メモ帳は、iPhoneのその名も「メモ」そして「グーグルキープ」
怖かったですが、手帳を持ち歩くのもやめてみました。
でも実際使うと、なんか違う。
もちろん、デジタルですから入力や出力(見え方)の違いは当たり前。
でも私が言う「違う」はそこじゃないんです。
例えば・・・
1)予定が変わった時
・スマホは予定を呼び出して日時を上書きしますが
・手帳なら、マンスリーカレンダーの既存の予定をマルで囲こみ、矢印をずーっとひいて新しい予定のマスに矢印で結びます。
2)偶然、メモとメモのあいだに何らかのキーワードや共通概念を発見した時
・スマホはそのキーワードのタグを作って両方のメモを結びつける。
・手帳は各々のメモをコラム状に囲み線でくくり、矢印線で結びつける。
たぶん普通に考えたらデジタルのほうが一覧性や検索性に優れているし、見た目も綺麗です。
しかし、デジタルが手書きと大きく違うのは、その変更や編集の経緯、時系列がわからなくなってしまうことです。
変更されたスマホの予定は「最初っから ここにいましたよ」と言わんばかりですし
タグは後で作られたくせして、メモ同士を結びつけ、我が物顔で司る「MM(マスターオブメモ」気取りです。
なんか知らんけど、すこし面白くない気分です。
軒を貸して母屋を取られるとでもいいましょうか・・
きっと手帳は結果を記録するだけでなく、自分にとって直近の行動や思索を振り返るツールなのだと思います。
人間の脳や神経を構成する神経細胞(ニューロン)はパソコンと同じように電気信号で動いています。
しかし神経細胞が伝える電気信号は、「0か1か」ではなく「強弱」、しかもものすごく複雑に分岐合流するな経路を持ち、受容側のオンオフの感度もまちまちです。
前述の面白くなさの理由は、アナログコンピュータとしての人間が、結果に至るいきさつ、つまり「ストーリー」を、結果だけを重視するデジタルの世界で、まるで要らないもののように切り捨てられてしまったことによるのかもしれませんね。
最終結果しか残らない、見た目きれいなデジタルの「上書き」は、最終結論を頭の中を書き出すファーストタッチには向いてないのではないか、と超個人的に考えるのですが、皆様はいかがでしょうか?
まあ単に「矢印や図形で考えたりまとめるのが好き」という、それこそ超個人的な好みの問題かもしれませんけどね(笑)。
気まぐれに毎年(半年のときも)いろんな手帳を試すので、ロッカーにしまってある手帳は大きさバラバラのカオス状態。
いつか見返す日が来るのかな、と楽しみにとってあります。
・・とここまで、スマホのスケジュール管理をdisってきましたが、実を申しますと仕事の予定を色んな人と共有でき、スマホでもパソコンでも同じものが見れるグーグルカレンダーも業務上ではもはや手放せないものになってます。