経営やってみたラボ、5 なぜ先代はやれもしないことをヤレヤレと言うのか?

私は自身が34歳、父が65歳になった時に社長の座を譲り受けました。

といっても最初の2年位はほんとにただ名前だけで、本当に社長らしいことをやりだしたのは36歳のころでしょうか。

株や土地に引き続き、とうとう公共投資バブルがはじけ、建設業の端っこにいた我々もヒイヒイ言っている時期でした。

正直、減価償却もままならぬ状態に追い込まれていたのです。

その頃引退した父は、取締役を外れ「相談役」として毎日もともとの社長室にそのまま出社しておりました。

私としては業務立て直しと同時に社員の処遇改善を企て、様々な(お金のなるだけかからない)策を練っては、文字通り「相談」に行くわけです。

一つ一つがたいしてお金もかからない小さな改善であるため、すんなり話が通ると思いきや、大抵そうはなりません。

15分で片付くと思った案件が、よくわからない反対に会い、3時間4時間も議論(というよりは言い合いですね)し、結局実現せず、しかもまだ一部現業もやっていたので、そちらの仕事にももろ響き深夜まで残業の毎日

業績回復も改善も遅々として進まない理不尽な状況に、もともと線が細い(?)私は精神が参ってしまいそうでした。

ある日いつものように水掛け論に巻き込まれた私は「もう限界」と覚悟を決めてこう先代に言い放ちます。

「あのさー、そんなことだからさっぱり上手くいかなかったんじゃないの?

そんなに俺の案に反対なら、も一回社長に戻ってくださいよ!

取締役とかじゃなく管理職で結構ですから、俺は下でがんばりますよ!

だいたい、あーせいこうせいって、言ってること全部自分でできなかったことばっかりじゃないの??

もういー加減にしてくださいっ!!」

一気に思いのたけを吐き出した私に父は平然とこう言ったのです。

「・・お前は馬鹿だなぁ・・俺が出来なかったからお前に言ってるんじゃないか。」

こう言われた私は完全に戦意喪失、言えたのはたった一言。

「あ はい・・じゃあ そのようにがんばります・・」

結局のところ自分がしていたことは相談とは名ばかり。

相手の気持を尊重せず一方的に自分の考えを述べるだけだった自分の方に問題があったんですね・・

つまり会話(キャッチボール)になってなかった

その日から、私はキチンと「相談」できるようになり、15分で済む話はホントに15分で済むようになりました。

今日は1時間かかるかなと思った相談も最後は「お前がそう思うなら良いんじゃないか」でせいぜい30分。

程なく父は午前中しか会社にいることがなくなり半隠居状態に、その約2年後の2000年に病を得て他界しました。その年の春に一緒に行った最後のゴルフはいい思い出です。

その後も私の悪戦苦闘は続きましたが、どうにかこうにか浮上のキッカケをつかみ、いまこうやって皆さまにこのレターを書いているわけです。

いま社長(相談役)室は、私のスペースになり、そこには先代沢田澄男の肖像画が置かれていて、私は毎朝手を合わせてから仕事を始めます。

・・・ほんと父が生きてるうちで良かった・・・

なので私も現取締役の皆さんには自分にできないことを平然と指示します。

そしてその最後に付け加えるのは「まあ、俺は出来ないけどね。」の一言です

次回は、業績改善の特効薬「KT錠」について書かせていただきます。副作用のこともしっかり説明しますね。