Vol.8_「勤勉なナマケモノ」

惜しくも2013年12月30日に亡くなった大滝詠一氏は晩年自らを「ミュージシャン」でも「音楽家」でもなく「勉強家」と称していました。

「はっぴいえんど」解散直後の1970年代半ばから彼を知り、夢中になり、尊敬していた私は、2010年当時ラジオでその話を聞き、早速真似してみることにしました。

苦手だった数学(微分とか三角関数)や語学の本を買い込み、車移動のときはラジオNHK第2で英語や中国語教室を聞く、という日々を2,3週間続けてみました。

その結果思ったことは・・・「やっぱ自分に勉強家はムリ!」

だって、やってて全然面白くないんです。

勉強といえば私、現在のセンター試験の前身「共通一次試験(1979〜1989)」の第一世代、理系文系問わずオールマイティを求められるこの受験制度は、私みたいな得意な科目が偏った受験生にはなかなか厳しいものでした。

国立大志望だった私は「苦手克服」こそが「勉強」と数学のテキストを前に長時間机に向かってはいたものの、実際のところは親の目を盗みこそこそと歴史雑学の本などに耽っていたんです。

その結果「アインシュタインは手洗用石鹸と髭を剃る石鹸の区別がつかなかった」とか、「新聞記者時代の石川啄木は、シラミをうつされた床屋を恨んで記事にした挙げ句、その床屋をつぶしてしまった」とか、、雑学が年号など本来身に付けなくてはいけない受験知識の領域と時間を侵犯していき、結局ほぼ対策できてないまま受験当日を迎えてしまいました。

そんなわけで志望した国立大学には入れず、某私立大の文系学科を卒業することになった私ですが、なぜか自らをかえりみず、ナマケモノで怠惰な友人を軽蔑していました

高校で勉強のできる子を拝み倒してノート写させてもらっているやつや、大学の試験で持込み可の六法全書や辞書の余白にひと晩かけて必死に書き込みをしているやつ。

私はそんな彼らを「楽をするためならどんな苦労もいとわない」バカバカしい連中と思っていたんです、勉強とは真面目に取り組むものであって、そんなものは勉強ではないと。

長じて社会人となり、自社に戻った私はこれまでとは全く違う勉強体験をします。

年号が平成に切り替わる当時、我社はまだパソコンがなく、伝票はすべて手書き。

なので、期中に利益が出そうかそうでないかの見通しは、売上・受注メモの手計算と先輩上司のヤマカン頼り、年度に締めた決算がハッキリするのも2ヶ月後

さらにお客様に出す書類や図面は全て個人管理(引き出しの中)という有様でした。

「社長の息子」という理由ですぐ管理職になった私はパソコンを導入し「楽に情報共有したくて」サーバーについて調べ、会社の中にヒイヒイ言って当時の太いLANケーブルを引き回し、見様見真似で社内サーバー立ち上げたり、「楽に決算の見通しを立てたくて」、試行錯誤して自前の営業管理データベースを構築したり、それはそれはとても勤勉に働きました。

夜中1人会社でケーブルの引き回しに疲労困憊し、けいれんする手指をさすりながらパソコンに向かい、「なんで自分はこんな苦労をしているんだろう?」と自問していたものです。

それから10年近くたって、先ほど書いたように「勉強家」の夢が消えて数週間後、突然その答えが浮かびました

「・・なんでこんな苦労って・・楽をするためじゃん!、これこそが勉強じゃん!

もう50歳になってしまってから、私はやっと「勉強とは苦手克服やマスターのことではない。」「楽したい時、興味の対象を持った時にするのが勉強なんだと」気がついたのです。

よくよく思い出してみれば尊敬する大滝詠一さんは「趣味趣味ミュージック」と称し「趣味の音楽」だけをひたすら勉強しつづける「勉強家」でした。

実は自分もすでに『勉強家』だったこと、と同時にあの軽蔑していた『楽をするためならどんな苦労もいとわない人間(勤勉なナマケモノ)』でもあること、の両方に気づかされたワケです。

勘違いから解き放たれていった私は、楽に経営をするために必要な知識はもちろん、直接役に立たない人類史とか自然科学史とか量子力学とか、自分の興味がわくジャンルを堂々と勉強するようになりました。

案外そんな周辺知識(「雑学」とも言われますが)から、自社の事業戦略上のアイディアや、後々感謝されることになるアドバイスが生まれることも多いんですよ、実は。