「自由」って哲学の世界の言葉って知ってました?
「自由(じゆう、希: ἐλευθερία、羅: libertas、英: liberty, freedom)とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。哲学用語」
今回は学問上の純粋な観念としての「自由」と私達が普段使う「自由」との違いについて考えてみました。
「哲学なんて何の役にもたたない、ヒマ人のおもちゃ・・・」
という考え方も確かにありますが、実は哲学で生み出された考え方は私達の実社会にも大きな影響を与えています。
例えば最近あんまり使いませんが、世界を「先進国」「後進国」に分けるという考えがありますね。
これは有名な哲学者サルトルらの「実存主義」にある「文明は(フランスを始めとした西欧諸国を先頭に)順々に進歩を続けている」という考え方に影響された考え方です。
「後進国(最近は発展途上国と呼びますが)を先進国のレールに乗せる、ODA(政府開発援助)やOECD(経済協力開発機構)はそういった流れから生まれました。
また同じくフランスの哲学者・人類学者であるレヴィ・ストロース(サルトルを徹底批判しました)らが展開した「構造主義」は、1970年前後、国際経済格差の解明に力をふるい、日本においては「構造不況業種」などの用語を生み出しました。
ここでちょっと話が変わりますが、「数」ってあるでしょ?
そう「1」「2」「3」の、あの「数」です。
たぶん数が生まれたとき、その目的は魚とか、果物とか、家畜だとかを数えるためだったんだと思います。
でも、その後発展した算数や数学の世界で「数」は抽象的な意味しか持ちません。
「1足す1は2」、とかそういうルール(公理)だけがある、実体のない存在です。
そこに数の対象となる同じ属性のモノや単位があって初めて「数」は私たちの実生活に意味を持ってやってきます。
1個のりんごと1個のりんご、足して2個のりんご
1万円と1万円足して2万円
といった具合です。
あなたとわたしを足して「幸せ」・・あ これは意味が違いますね・・
「数」と同じように、哲学用語となった「自由」はそれそのものでは確かに実生活上何の役にも立ちません。
しかし、「〜の自由」「〜からの自由」と対象を限定したとき、自由は具体的意味を持って私達に迫ってきます。
「行動の自由」「言論の自由」「差別からの自由」
日本語は、主語が曖昧な「主題優勢言語」の一つであると言われています。
そのせいかどうか、私達は時々この「〜の」を付けずになんというか野放しの自由を語っていることがあるように思います。
「じゆうをかたりあい かべにぬりこめあう ぼくらです」*
これは「はっぴえんど」という古いバンドの曲の歌詞です。
私には、互いに別々の「自由」について語り合って結果互いに相手の自由を侵し合う様子におもえます。
世間をみているとそんなことが最近増えているような気がしてなりません。
実は英語圏だと「自由」を意味する言葉は2つあって「Freedom」と「Liberty」。
私は高校の時にクリスチャンの先生から「Freedomは束縛からの自由、野性状態」「Libertyは神との約束のもとの自由」と教えてもらいました。
日本書紀や徒然草にある「自由」は今で言う「わがまま」「好き勝手」といった意味で書かれているそうです。
古来日本人が想起する自由は「Freedom」寄りなのかもしれません。
集団で生きる以上、絶対かなうことのない「Freedom」寄りの「自由」を常に求めているからこそ、常に自由欠乏症。
世界でもトップクラスの豊かさを実現しても、幸福度ランキングは毎年下がって、いまや62位。
なんかこの辺に理由がありそうな気がしますが、いかがでしょうか?
☆おまけ 「Liberty」は政治用語「リベラル」の語源でもあります。「リベラル」はそれを唱える人によって、多様な(場合によっては正反対の)意味を持ちます。これは人によって「神様」の定義(無神論も含め)も多様だから、とも言えなくないですか?
* 「あやか市の動物園」 曲:細野晴臣 詞:松本隆 1970年